つれづれ夜咄(旧韓ドラ・懐かし映画・時々ビョンホン)

韓ドラ・懐かし映画・時々ビョンホンのリニューアルブログです。内容少し変更

平安貴族の社交・恋愛のツールは歌=和歌

「歌を詠む」は平安貴族のたしなみ
源氏物語」では何かというと歌がかわされます。これは子供の頃からそういう教育を受けていないと挨拶がわりに「歌を詠む」などできませんね。
物語中の人物が詠む歌は作者の紫式部がその人物のキャラクターに合わせて詠み分けるわけですが、現代にも数多くの作家がいますが、こういう芸当のできる作家は見当たらないような気がします。もっとも現代の物語は歌を必要としませんが。メールか電話で心を通わせることができるのかわかりませんが。
現代は手紙すらめったに書きません。
源氏物語」では弘徽殿女御と源氏の正妻葵上の二人の歌は一首も登場しません。
弘徽殿女御は自分の息子が天皇になることだけを考える人ですから「歌なんか詠んでる場合じゃない」。
正妻の葵上は実は源氏ではなく兄の第一皇子に嫁いで皇太子妃になることを夢見ていたのに、父の左大臣が第一皇子ではなく源氏を婿に選んでしまうのですね。
それが不満なのと、4歳年上ですから最初源氏が子供に見えたのでしょうか。みんなが憧れる源氏なのにどうも他人行儀。
これでは源氏も面白くありませんからつい葵上のところへは足が遠のき他の女性のところへ遊びに行ってしまう。
ところで歌を詠むのは常識といっても人には得手不得手があります。文才がないと何とも様にならないつまらない歌しかできない。第一良い文句が浮かんでこない。そこで助けになるのが掛け言葉や本歌取りといった「言葉遊び」の要素を取り入れること。
参考書は式部の時代より100年ほど前に編集された「古今和歌集」です。この歌集の中から気に入ったフレーズを引っ張り出して適当につなぐ。
まあ芸術というより「社交の道具」、「恋愛の道具」ですから相手がそれを詠んで喜べそれで目的は達せられる。
現実主義者の弘徽殿女御と生真面目な葵上には「歌がない」、「歌は必要ない」。